最近のマスメディア

先日の猛暑日を境に、振り幅は違うもののマスメディアの論調が変わった気がする。何が変わったのか?
脱原発・反原発に対して「現実的でない」「余剰電力9%。原発は無くせない。現実を直視せよ」「生産拠点海外へ、脱原発は不可能」など、原発は必要悪だという論調に変わってきている。

日本のマスメディアはどこまで浅はかなのか?管政権を批判する前に、自らのジャーナリスト精神を問い直すべきだろう。

原発は本当に必要悪なのか?

私の答えは「必要悪ではなく、作ってはいけないもの」である。

理由は主に以下の3点

1:原発ゴミ、いわゆる放射性廃棄物の処理方法が分からないので、取りあえず固めて地下に埋めちゃう。未来世代が新技術を開  発して処理してね、というあまりにも無責任な考え。現世代が好き勝手に浪費して出した結果生まれた核廃棄物を、未来世代  へ押し付けてはならない。

2:原発技術者や原発推進派の言う「新しい技術で、より安全になったから、もう大丈夫」という言い分。自信過剰もここまでく  ると哀れに見えるが、浜岡原発がそうであるように、知られていない活断層の上に建設した場合、その断層が1mもずれれば  核暴走による大事故は避けられない。気候変動によってなのかは明らかでないが、毎年起こる想定外の異常気象。どんなに安  全設計しても、自然の猛威とヒューマンエラーは必ず起こる。そして、原発事故の影響は次世代にも続く。
  
3:供給過剰な電力は、生活の豊かさをはき違いさせる。国会議員で、電力は国力だと言い切った馬鹿者が自民党にいるが、そ   れは違う。その考え方は 国力=経済力 という、人間性を無視した拝金主義的な過去の経済学に依拠している。

3番目の理由には、少し補足をしておきたい。

資源の無い日本が豊かになるためには、電力を使って生産効率を極限まで追及し、産業分野では人間性を無視した生産性を追い求め、利益のためであれば「便利になる」「楽しくなる」という魔法のような言葉を使って、科学と技術という人の心が入り込む余地の無い世界で製品化され、世の中に出回る。

高度経済成長期以降、日本は狂ったように働き資源を浪費する事で、表面的・物質的には豊かに見えている。田中角栄の列島改造論の頃から文化的な背景をもとにした理念を失った結果、現在の見苦しい大都市東京が生まれた。
駅を降りれば、異常に大きな雑音が鳴り響き、熱風を噴出すたくさんの自動販売機に出迎えられる。人と話をしようにも、みんな携帯電話やゲームに夢中か、やたらと早足で去ってゆく。
夜になれば、これまた異常なほどの明るさと雑音で、田舎もんの私は頭がおかしくなりそうになる。

どんだけ、無駄な電気を使っているんだ?

24時間眠らない町? 眠らないと頭おかしくなっちゃうよ。

この眠らない都市東京が国力(=電力)の象徴であるなら、東京なんて要らない。

私は以前、港区芝浦にある会社に勤めていた。ともすれば、1日誰とも会話せずに過ごす事があったが、正直何のために働いているのか、その意義を見失う事もあった。

その経験を踏まえて、人は、他者とのつながりがってこそ、自己を確立していられると私は思っている。田舎に住んでいると、良くも悪くも他者と関わらないで過ごせる日は無い。面倒くさくても、必ず何らかの形で関わっている。この他者との関係のわずらわしさが、人間とって本当の必要悪なのかもしれない(ここで言う他者とは人間だけでなく、自分に関わってくる自然を含めた全てのもの)。

ヨーロッパの多くの都市は、この点を見逃さずに街づくりをしている。駅には騒音が無く、オープンカフェが目立つ。自動販売機など全く無い。歴史的建造物が多く残っているため、その歴史的・文化的背景を大切にした街づくりは、そこに住む人たちの結びつきの強さを表している。オープンカフェは地域の情報交換の場としても機能しているが、旅行者の情報源でもあるのでおすすめ。

話を戻すが、拝金主義に基づいた理念なき国づくりでは、いくら電力を供給しても怪物のように浪費し、その結果、何の文化的価値も見出す事が出来ないまま疲弊した民が生まれるだけだ。
よく、国会議員や経済学者が「便利な世の中を経験して、昔の生活に戻れるんですか?戻れないでしょう」と言っているが、本当に便利になったのか、何をもって便利とするのか、ちゃんと検証するべきだろう。

電気が無ければパニックに陥る脆弱な日本は、発展途上国から学ぶべきことが多々ある。便利な道具と引換えに日本人は自らの生活の技を捨ててしまったから、電気がなくなるとパニックに陥る。自分達で生活の糧全てを作り出していた「自在性」を失ったと同時に、今回の原発事故で露呈したが、独立した地方自治の自在性も失っていたことが良く分かった。

今の日本のマスメディアは、表層的な部分ですらまともに報道できていない。それどころか、地に足の着いていない浮ついた経済学者や評論家を疑う事無く妄信して記事にしてしまうような姿勢は改めるべきだ。