福島・沖縄の犠牲のシステム

朝日新聞のWEBRONZAというのが目に止まったので、引用してご紹介。

しかし、ミスター100ミリシーベルトこと、山下俊一氏は甲状腺学会理事長という立場を利用して、福島県以外でセカンドオピニオンとなる甲状腺検査を受けさせるなと専門医達に通達を出していたとは、言葉が悪いがマジでイカレテル。

セカンドオピニオンを受けるのは受ける側の権利だ。なぜ山下何某がそのような事をするのか?
すでに甲状腺がんを発症してしまった子どもがいる。
福島県は犯罪とも言えるこのような行為を、今後も進めるのか?

福島県の人口流出が止まらないと騒いでいるが、当たり前だ。


福島・沖縄の犠牲のシステム-原発オスプレイはすぐそばの我が身の問題として犠牲のシステムを問う

10月5日、NPJと「日隅一雄・情報流通促進基金設立準備会」の共催でシンポジウム「福島・沖縄の犠牲はなぜ伝えられないのか〜メディアを問う〜」が開催されました。シンポジストは、東京大学教授・高橋哲哉さん、琉球大学教授・我部政明さん、OurPlanetTV代表・白石草さんの3人で、全体的に「メディアを問う」という点についてはあまり語られなかったのですが、白石草さんが次のように指摘していたのは印象的でした。

 故日隅一雄さんととともに日本のマスメディアのあり方を問題にしてきましたが、いまだに国家が電波を管理しているのは、日本、中国、北朝鮮などだけです。基本的に日本においては、「国家による犠牲のシステム」をマスメディアがきちんと伝えないシステムになっています。たとえば、個人の犯罪や事件についてはマスメディアは過剰なほど敏感になり報道します。しかし、国家による犠牲は報道しません。国家による犠牲というのは、福島原発事故の犠牲であったり、オスプレイや米軍基地による沖縄の犠牲であったりするわけですが、マスメディアはこうした国家が強いている犠牲についてはその犠牲のシステムが浮き彫りになるようなきちんとした報道はしないのです。マスメディアは、個人の犯罪や事件の断片は熱心に報道しますが、個人と社会システムの関係性や、国家によって個人に強いられる犠牲のシステムの問題にはきちんと向き合おうとはせず、根源的な犠牲を報じないというマスメディアのシステムになってしまっているのです。(※白石草さんの発言要旨はここまで)

 そして、とても興味深かった東京大学教授・高橋哲哉さんによる福島と沖縄の犠牲のシステムについての発言要旨を以下紹介したいと思います。(by文責ノックオンツイッターアカウントはkokkoippan)

 私は福島で生まれ育った人間です。昨年の3.11では、決して津波地震の被害、宮城や岩手の被害を軽視するわけではありませんが、チェルノブイリに匹敵するレベル7の過酷事故となった福島原発事故を大変衝撃的な出来事として考えています。

 他方で40年近く東京で暮らしてきたということもあり、かつて福島の子どもであった自分と、その後、東京で福島などの原発から電力を享受してきた自分という、2つの自分を抱えながらこの問題について考えてきたつもりです。3.11以降、月に2度は私の故郷である福島の地に立っていろいろな人々と対話を重ねてきたこの1年半でもありました。

 この間、たとえば朝日新聞には福島の地図とともに放射線量が掲載されています。しかし、この放射線量の報道が福島の実態と違っていることは、私が現地に通う中で実感していることのひとつです。たとえば、朝日新聞の報道では飯舘村放射線量は1マイクロシーベルトにも達していないとされています。しかし、現地では5から7マイクロシーベルトぐらいは実際にあるのです。こうしたことに対してモニタリングポストの周辺だけ除染がされているというような指摘などもあるわけです。

 いま年間20ミリシーベルト以下なら住んでいいとされています。しかし、原発作業員の基準は5年で100ミリシーベルトです。単純に1年の平均で考えるとするならば年間20ミリシーベルトです。福島の子どもたちを含めて原発作業員と同等の基準でいいとされてしまっているのです。もちろん原発作業員の被曝労働も大変な問題です。けれども、一般人に対して、それも子どもたちも含めてこれを適用してしまっていることに、あらためて問題があるということを指摘しておきたいと思います。

 福島県内の0歳から18歳の子どもたちの甲状腺検査が行われました。昨年は南相馬市浪江町など比較的福島第一原発に近い約4万人の子どもたちの甲状腺検査が行われ、その結果が報告されました。5ミリ以下の結節、20ミリ以下の嚢胞(のうほう)の存在が認められた子どもは35.3%という数字でした。さらに大きな5.1ミリ以上の結節や20.1ミリ以上の嚢胞が認められた子どもも0.5%いました。あわせると35.8%にのぼります。

 子どもたちの35.8%に結節や嚢胞が認められたことに対して、福島県は良性だから問題はないという認識を示したわけです。「福島県は」と言いましたが、これは福島県の健康管理の責任者である山下俊一福島県立医科大学副学長の認識です。100ミリシーベルト以下なら問題がないと原発事故直後に講演等で述べて「ミスター100ミリシーベルト」と呼ばれた人です。放射線の影響はニコニコしている人には来ない、くよくよしている人にしか来ないと言ったり、いろいろな発言で物議を醸しましたが、この山下俊一氏が福島県の健康に関する責任者です。こうした山下俊一氏の見解で福島の子どもたちには問題がないということにされてしまっているわけです。

 今年9月にあらたな甲状腺検査の結果が報告されました。これは福島市の子どもたちを中心に約4万人の子どもたちを検査したものです。検査結果は、5ミリ以下の結節、20ミリ以下の嚢胞の存在が認められた子どもは43.1%に達しました。5.1ミリ以上の結節や20.1ミリ以上の嚢胞が認められた子どもは0.6%で、あわせて43.7%になります。福島市南相馬市などよりも福島第一原発より遠いのにこういう結果でした。

 甲状腺検査の結果はほとんどが良性で1人だけ甲状腺癌と認められました。ここでも山下俊一氏らはこの1人の子どもの甲状腺癌は福島原発事故との因果関係は認められないとしました。なぜなら、チェルブイリでは事故後、甲状腺癌が認められたのは4年後で、福島ではまだ2年もたっていないのだからこれは因果関係があるとは考えられないというわけです。みなさん、この理屈を理解できるでしょうか? まったく科学的な推論とは思われないのですが、そういう理屈で因果関係はないとされてしまったいるのです。

 通常、子どもの甲状腺癌は100万人に1人の割合で発症しますが、福島市の子どもの中では約4万人に1人が見つかっているのです。いずれにしてもこれは不安な結果なのではないかと私は考えます。 

 そして、とうの山下俊一氏自信が調べたデータが2つあります。1つは山下俊一氏が数年前に長崎で行った調査です。7歳から14歳の子ども250人を調べて嚢胞が認められたのは0.8%でした。もう1つはチェルノブイリの事故後5年後から10年後までの間に、チェルノブイリのゴメリ地区とその周辺で16万人の子どもの甲状腺を山下俊一氏が調査したもので、嚢胞が認められたのは子どもは0.5%でした。それから、これは山下氏が調査したものではありませんが、アメリカの学会誌に掲載された論文で、アメリカの10歳児の調査では嚢胞が認められたのは子どもは0.5%から1%ということになっています。

 いずれも福島以外は1%以下ということになっているわけです。とうの山下俊一氏が調べたデータも2つある。これに比べて福島では35.8%と43.7%です。これはとても心配なのではないかということです。

 ところがさらに問題があります。この山下俊一氏は日本甲状腺学会の理事長でもあるのですが、山下理事長名で、日本甲状腺学会のすべての学会員に対して、福島の保護者から再検査の要請があったときにはこれを受けないように、新しい自覚症状が出ていない限りは福島県の調査で問題がないので検査を行わないようにしてください、保護者にもそう説明してください、という通知が公然と出されているのです。日本全国の甲状腺の専門医に対してこうしたことを行い、心配になった福島の保護者はどうすればいいのでしょうか? セカンドオピニオンもとれないということなんです。これが学会ぐるみでなされているというのは一体どういうことでしょうか? きわめて不信な状況になっているのです。

 実際に福島県内の保護者が県外の病院に行ってもう1回調べてくれといったら断られるケースが発生しています。私はこれはきわめて不信な状況だと考えます。

 さらにその不信に輪をかける報道が『毎日新聞』10月5日付の1面トップで「福島健康調査:委員発言、県振り付け…検討委進行表を作成」と報じられています。子どもの甲状腺の検査について福島県は専門家が集まった検討委員会に対してあらかじめ秘密裏に準備委員会を開いていたのです。そこで検討会で議論することをあらかじめすりあわせていた。つまり結論ありきの出来レースだったということです。これは福島県も問題があったと認めているわけですから事実です。2重、3重、4重ぐらいの不信をつのらせるような事態がいま福島の子どもたちをめぐって起きているのです。福島の子どもたち、県民の放射線被曝の状況というのは依然として大変憂慮される状態にあります。こうした問題について、マスコミはもっと迫るべきだと思います。

 チェルノブイリ原発事故の到達点として、1ミリシーベルトで避難の権利、5ミリシーベルトで避難の義務があります。日本では避難の権利が認められていないことが問題なのです。避難の権利が認められていないから、避難をした人に対して公的な保障が何もなく自己責任とされてしまうのです。福島の子どもたち、多くの福島住民が、不安と恐怖の中に置かれ続けるという犠牲のシステムを変えなければなりません。

 次に沖縄の問題です。沖縄にオスプレイが配備されてしまいました。岩国にオスプレイが陸揚げされてしまったときにこれを沖縄に持っていってはならないと私は思いました。沖縄の米軍基地の過剰負担はもう限界を超えています。日本全土にある米軍基地の74%が70年にも渡って沖縄に集中しており米軍基地の過剰負担は明らかです。沖縄に犠牲が集中させられてきたのです。

 その上に、世界でもっとも危険な普天間基地に危険きわまりない何度も事故を起こし緊急着陸などで安全性に疑問を持たれているこのオスプレイを、沖縄県民総ぐるみの反対、沖縄の民意を平然と無視して今回強行配備が行われました。

 日米安保体制をやめるつもりがないならば、あるいは今すぐやめられないならば、日米安保を前提にして米軍基地負担の平等をはからなければならないということは倫理的に考えても言えることです。私自身は日米安保以外の安全保障体制をつくっていくべきだと思っています。それには周辺諸国との良好な関係をつくっていく必要がありますが、いまのように歴史問題や領土問題で対立が起こっているような状況では夢のような話のように思われるかもしれませんが、しかし最終目標はそこに置くべきだと私は思っています。

 しかし、日米安保が続き、オスプレイまで押しつけられるなか、沖土移設論が出て来たとき、本土はこれをしりぞける理由はありません。日米安保体制について積極的に支持してきた人もいるでしょう、消極的に容認してきた、あるいは反対だけれどもその政策を変えることができなかった――私もその一人ですが――そういう人もいるでしょう。しかし、結果として現状のような不平等な形で沖縄に犠牲がおしつけられてきたのです。これは日本国憲法上もあるいはそもそも倫理的にも正当化できません。沖縄の人々の犠牲の上にそれ以外の日本国民が米軍基地負担をまぬがれ「利益」を享受するということは犠牲のシステムです。一部の人を犠牲にして成り立つ犠牲のシステムを正当化できないのです。県外移設論がいま沖縄で高まりつつあるということをやはり在京メディアなどはきちんと伝えきれていないと思います。これまでのパターンで沖縄の基地負担が問題になると県民大会など大きな動きがあれば一瞬は報道するけどれども、これを沖縄だけの問題として、これを全国の問題、また東京にある政府の問題、政府を支える日本国民全体の問題として報道する姿勢は弱い。ですからマスメディアも現状に対して責任があります。

 犠牲を強いる状況に追い込まない、犠牲を強いる状況をつくらないために何ができるかを社会全体で考えていかなかければなりません。そもそも犠牲はあるべきではない、犠牲はあってはならないのです。それでは犠牲がまったくない社会というのは考えられるのでしょうか?という問いが最後は出て来ます。それは犠牲の定義にもよります。犠牲のない社会はあり得るのか?という問いについては簡単に答えは出ないけれども少なくとも政治的に、あるいは社会的にシステム化された犠牲を批判してこのシステムを変えていく、なくしていくということは十分に可能であろうと私は考えています。

 歴史的に見れば戦前、戦中というのは、国家が国民に犠牲を求める社会システムになっていました。国家が犠牲を公然と正当化していたのです。それは教育勅語にもみられるように国民は天皇のため国のために命を捨てて尽くすべきとされ教育によって強制されていたわけです。だからこそ国のために戦死した軍人は模範として靖国の神となるということだったわけです。かつての国家体制においては犠牲は公然と国によって正当化され、国民に犠牲は要求されていました。その体制が1945年に破綻したわけです。

 戦後は日本国憲法の人権原則からして明らかに犠牲を公然と正当化することはできなくなりました。犠牲を公然と正当化できる国ではなくなったわけです。すべて国民は個人として尊重されるわけですから国のために犠牲になれとか犠牲になることが模範になることだとは言えなくなったのです。沖縄や福島において見られるような人権侵害は、憲法上は正当化することができません。公然と犠牲を正当化できないかわりに、原発においても沖縄の犠牲においても犠牲ではない形がとられているのです。それは、「原発安全神話」であったり、米軍の軍事力による「抑止力神話」などによってそれが犠牲ではないという形がとられるのです。

 私たちは自分自身のすぐそばに、原発がある、米軍基地がある、オスプレイが飛んでいる、と我が身のこととして考えなければならないのです。

 ――以上がシンポジウムでの高橋哲哉さんの発言要旨ですが、最後に高橋哲哉さんの著作『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書)からの一節を紹介します。

 高橋哲哉著『犠牲のシステム 福島・沖縄』(集英社新書

 35ページ〜39ページより

 犠牲になるのは誰か

 「被曝して死ぬまでやらされる」のは、東電の会長でも社長でもない。原発内の現場作業員であり、彼らの多くは東電社員ですらなく、子会社・孫会社を通して集められた非正規労働者に他ならない。しかも、現在、福島第一・第二原発内で危険な任務に当たっている作業員の約8割は、地元出身者であるという(作業員の健康状態を診察した医師の証言)、原発事故の被災者自身が、事故収束のため過酷な末端労働を担わされているのである。

 彼らを「決死隊」と呼んだり、「フクシマ50」と呼んで英雄視する報道もある。いよいよ大量被曝を覚悟した作業が必要になったとき、「平成の特攻隊」をどのように選べば「公正」なのか、という議論もある。志願によってであれ命令によってであれ、被曝死者が出たら、靖国神社の「英霊」のように、「お国のため」「国家国民のため」「日本のため」に命を捧げた「尊い犠牲」として顕彰し、(遺族がいれば)遺族に精神的慰謝と経済的補償を与えればよい、というのだろうか。その実態はしかし、「完全無責任体制」で推進されてきた原発政策、その利権に群がってきた政治家、官僚、電力会社幹部、原子力科学の学者・技術者たちの怠慢、欺瞞、特権意識がもたらした無残な失敗の、尻拭いを強いられる、ということではないか。現代のスケープゴート(犠牲の山羊)にされる、ということではないか。災厄に襲われた社会が、自らの罪から逃れるために、力弱い山羊に全責任を押しつけて、犠牲に捧げる。そうしておいて社会は、山羊を自分たちの救い手として崇め奉るのである。(中略)

 福島原発でも他の原発でも、今回のような危機においてだけでなく、じつは「平時」からつねに末端には被曝労働者が存在し、被曝が原因と疑われる病気や死亡例が後を絶たないのだが、その真相はいまも隠されたままである。(中略)

 原発というものは、内部にも外部にも犠牲を想定せずには成り立たないシステムである、と言えるのではないか。日常的にも危機においても、原発はその内部に被曝労働者の犠牲を必要とする。いったん大事故が起これば、まず地元とその周辺の人々と環境が、そして放射性物質の拡散によって、県境や国境も越えて広大な地域の人々と環境が犠牲とされる。原発とはそのような犠牲のシステムなのである。(中略)

 かつて「戦争絶滅受合法案」なるものがあった。前世紀の初めデンマークの陸軍大将フリッツ・ホルムが、各国に次のような法律があれば、地上から戦争をなくせると考えたのだ。戦争が開始されたら10時間以内に、次の順序で最前線に一兵卒として送り込まれる。第1、国家元首。第2、その男性親族。第3、総理大臣、各省の次官。第4、国会議員、ただし戦争に反対した議員は除く。第5、戦争に反対しなかった宗教界の指導者。――戦争は、国家の権力者たちがおのれの利益のために、国民を犠牲にして起こすものだとホルムは考えた。だから、まっさきに権力者たちから犠牲になるシステムをつくれば、戦争を起こすことができなくなるだろう、というわけだ。

 この段で原発事故を考えれば、どうなるか。原発を推進するのは、政治家、官僚、電力会社、学者などから成る「原子力ムラ」である。とすれば、大事故の際にはまっさきに、次の人々が「決死隊」として原子炉に送り込まれる。内閣総理大臣、閣僚、経産省等の次官と幹部、電力会社の社長と幹部、推進した科学者・技術者たち。原発を過疎地に押しつけて電力を享受してきた(筆者を含めた)都市部の人間の責任も免れない。

 問題は、しかし、誰が犠牲になるのか、ということではない。犠牲のシステムそのものをやめること、これが肝心なのだ。

(2012年10月8日更新)

出典:http://webronza.asahi.com/bloggers/2012101000003.html





今日の空間線量測定結果

10月11日 午後3時 栃木市

エステー製 AC-S 0.07μSv/h

Medcom社製 CRM100 0.103μSv/h

  SE社製 M4  0.145  

*晴れ 弱い北西風 高さ30cm

今日からM4の測定も再開。